プロ野球ドラフト会議が10月下旬に行われますが、ドラフト会議での指名は「交渉権の獲得」であるため、指名された選手が入団しないこともあります。
もしプロ野球ドラフト会議で指名されたのにも関わらず、入団拒否をすることは可能なのでしょうか?
入団拒否に関してペナルティーはあるのか、過去の例やその後なども気になりますよね。
そこでこの記事では、プロ野球ドラフト会議において指名されたのにも関わらず入団拒否をするのは可能なのか、ペナルティーはあるのか、過去の例やその後について調査してみました。
- ドラフト指名で入団拒否をするのは可能なのか?
- ドラフト指名で入団拒否をしたらペナルティーはある?
- ドラフト指名で入団拒否の過去の例、その後
ぜひ最後までお読みください。
【プロ野球】ドラフト指名で入団拒否はできるのか?
プロ野球ドラフト会議において、球団から指名されたのにも関わらず、選手側が指名拒否をすることは可能です。
冒頭でも紹介しているように、あくまでもプロ野球ドラフト会議での選手の指名は「交渉権の獲得」にすぎないため、選手側は入団の意思がなければ拒否をすることができます。
過去にもプロ野球ドラフト会議にて指名を受けたのにも関わらず、「希望の球団ではなかったから」「下位指名だったから(上位指名希望)」などという理由で、入団拒否した選手はいます。
この記事でも最後の項目にて紹介しているので、気になる人はぜひ読んでみてくださいね。
では、プロ野球ドラフト会議にて指名されたのにも関わらず入団拒否をしたらペナルティーはあるのでしょうか?
【プロ野球】ドラフト指名で入団拒否をしたらペナルティーはある?
プロ野球ドラフト会議の指名にて入団拒否をしたらペナルティーは実質的にあると言えます。
ドラフト会議にて「交渉権」を獲得すると、1年間はドラフト指名した球団が「交渉権」を持っています。
そのため、他の球団が入団交渉することができないのです。
では、ドラフト会議で入団拒否をした場合がいつだったのかに合わせて、どういったペナルティがあるのか紹介します。
入団拒否<高校生>
プロ野球ドラフト会議の指名にて、入団拒否をしたタイミングが高校生だった場合はどうなるのでしょうか?
高校生の場合、次の進路は大学または社会人となります。
では、大学に進学した場合と社会人になった場合に分けて見ていきましょう!
<大学に進学した場合>
ドラフト指名を受けて入団拒否し、そのまま大学に進学した場合、大学4年生になるまではプロ志望届を提出することができません。
そもそも大学野球でプレーをして、プロ野球に進みたいという選手は、大学4年生にならないとプロ志望届を提出することができない仕組みとなっています。
高校3年生の時にドラフト会議にて指名を受けているからといって、大学1年生からすぐにプロ志望届を提出できるわけではないのです。
大学に進学したら他の選手と同じ条件でプロ志望届を提出できるという仕組みになっているため、大学を卒業するまではプロ野球選手になることはできません。
<社会人野球を始めた場合>
ドラフト指名を受けて入団拒否し、高校卒業後に社会人野球チームに所属した場合は、3年間ドラフトの対象から外されます。
社会人野球ではドラフト会議において「プロ志望届」の提出は必要ありません。
そのため、球団側も社会人3年目のシーズンが終わるまではドラフト会議において指名することができないのです。
入団拒否<大学生>
プロ野球ドラフト会議の指名にて、入団拒否をしたタイミングが大学生だった場合はどうなるのでしょうか?
大学生の場合は、次の進路は社会人になりますよね。
ドラフト指名を受けて入団拒否し、大学卒業後に社会人野球チームに所属した場合は、2年間ドラフトの対象から外されます。
ドラフト会議で指名されずに社会人野球に進んだ選手はそもそも2年間はドラフト対象外となるため、入団拒否して社会人野球に進んでも同じ条件になります。
ただ、社会人野球に進まずに大学にそのまま在籍(留年)した場合は、翌年のドラフト会議にて指名される権利があります。
留年という扱いであるため、対外試合に出場することができないというデメリットはあり、実践経験が少なくなってしまうデメリットがあるものの、翌年にでもプロ入りしたいという人はこのような方法を取るケースもあります。
入団拒否<社会人>
プロ野球ドラフト会議の指名にて、入団拒否をしたタイミングが社会人だった場合はどうなるのでしょうか?
社会人野球の場合は「プロ志望届」を提出してドラフト会議で指名されるわけではないため、入団拒否があったからといってなにかのペナルティに課せられるわけではありませんでした。
そのため、ドラフト会議が行われてから1年間は指名球団が「交渉権」を持っていますが、1年経過すると「交渉権」はなくなるため、翌年以降のドラフト会議では指名することが可能になるかと思われます。
入団拒否<海外球団と契約>
プロ野球ドラフト会議の指名にて、入団拒否をし、その後海外球団と契約するケースも過去にはありました。
日本でドラフト指名からの入団拒否をし、海外球団と契約した場合、日本復帰後は一定期間プロ野球選手になることはできない仕組みとなっていました(田澤ルール)。
田澤ルール:高校卒業選手は2年間、大学卒業・社会人出身選手は3年間、日本プロ野球チームと契約できない仕組み。
しかし、2020年にこの「田澤ルール」は撤廃され、現在では何もペナルティーがないようになっています。
【プロ野球】ドラフト指名で入団拒否の過去の例
プロ野球ドラフト会議にて指名されたにも関わらず入団した拒否選手は、ここ数年ではほとんどいませんでしたが、過去にはそのようなケースが多くあったそうです。
では数名に絞って、ドラフト指名されたのにも関わらず入団拒否した過去の例について見ていきましょう!
ドラフト指名で入団拒否のその後は?<福井優也>
2005年のドラフト会議にて、済美高校在学中に巨人から4位指名を受けた福井優也選手。
しかし、福井優也選手はドラフトでの指名順位が低いということから、入団拒否をしています。
入団拒否の詳しい理由は、
- 当時、福井優也選手は甲子園出場選手(先発で活躍していた)であったのにも関わらず4位指名だった(別の高校の甲子園未出場選手が3位指名を受けていた)ため、指名順位に不満を持った
- 高校卒業後ドラフト4位指名を受けた選手が2年で支配下登録を解除され育成打診をされていたことにショックを受けた
などの理由が挙げられました。
しっかりと自分の実力を伸ばした上でプロ入りしたいという思いとなり、福井優也選手の父親もこのように話していました。
取材に応じた父親の俊治さんは「本人は将来、逆指名もしくは、ドラフト上位指名されるくらいまで頑張りたいと言っていた。その考えを尊重する」と話した。
https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/1727757_m.html?mode=all
福井優也選手は結果として、1年浪人した上で早稲田大学スポーツ科学部へ進学(大学卒業後にプロ入りできなかったことも考えた上での進路を選択)、大学4年生の秋に行われたドラフト会議にて、広島より1位指名を受けてプロ入りを果たしています。
ドラフト指名で入団拒否のその後は?<長野久義>
2006年のドラフト会議にて、日本大学在学中に日本ハムから4位指名を受けた長野久義選手。
長野久義選手は巨人への入団を熱望していたため、日本ハムへの入団を拒否しています。
日本大学卒業後は本田技研工業へ入社し、Honda硬式野球部へ入部しました。
長野久義選手が社会人2年目となった2008年のドラフト会議前には「巨人以外に指名された場合は、会社に残留する」と決めていました。
しかし、ロッテがドラフト2位指名で長野久義選手のことを選択しました(巨人は1位指名を確約していたものの、結果として別の選手を指名)。
長野久義選手はロッテへの入団も拒否し、当初の予定通り、巨人以外に指名されたため会社へ残留をしました。
そして翌年の2009年のドラフト会議にて、巨人より1位指名を受けプロ入りを果たしています。
ドラフト指名で入団拒否のその後は?<菅野智之>
2011年のドラフト会議にて、東海大学在学中に巨人と日本ハムから1位指名を受けた菅野智之選手。
ドラフト1位での指名が2球団あったことから、交渉権獲得のための抽選を行い、結果として日本ハムが交渉権を獲得しました。
しかし、菅野智之選手は小さい頃から「巨人の選手になりたい」という想いが強くあったため、日本ハムの入団を拒否しています。
菅野智之選手の伯父は原辰徳さんであり、菅野智之選手が野球を始めたきっかけも原辰徳さんの引退試合を見たことでした。
そのため、巨人に対する想いが強かったのです。
菅野智之選手は、結果として東海大学の卒業延期制度を利用して大学に残り、翌年2012年のドラフト会議より巨人より単独1位指名を受けてプロ入りを果たしています。
ドラフト指名で入団拒否のその後は?<山口裕次郎>
2016年のドラフト会議にて、履正社高校在学中に日本ハムから6位指名を受けた山口裕次郎選手。
ドラフト会議が行われる前には「4位以下の指名であれば社会人野球に進む」と、調査書を提出した球団に対して意思を伝えていました。
山口裕次郎選手はプロと社会人野球で悩んでいたのもあり、指名順位縛りをしていたのです。
しかし、結果として日本ハムが6位指名をし、山口裕次郎選手は当初の考え通り入団拒否をしています。
履正社高校卒業後はJR東日本の野球部に所属し、社会人野球の選手としてプレーをしていたものの、思うような結果が出なかったそうです。
自分の中でもどれが正解か分からなくなり、投球フォームに悩んだり、もともとのケガが再発し、まともに練習することもできなくなってしまったとのことでした。
そして、社会人野球生活6年目が終了したタイミングで監督より勇退が告げられて現役生活を終了しています。